ジュゴンの家・日誌
「ジュゴンの家」の賛助会員、募集中
「ジュゴンの家」は沖縄・名護にあるリサイクルショップです!!お店を開けつつ、「基地建設をとめたい!!」という思いで、日々行動しています。
「ジュゴンの家」では「ジュゴンの家」を支えてくださる賛助会員を募集しています。
「力になろう!」という皆さま!!
ぜひ、賛助会員になってください!!よろしくお願いします!
会員申し込みは・・・FAXまたはメールでお知らせください。
  住    所 沖縄県名護市城2-13-2
  電話&FAX 0980−54−2948 
   e−mail   dugonghouse_in_okinawa@yahoo.co.jp
会費・・・月1000円、年10.000円となります
同基金への協力は 
●琉球銀行 普通口座 名護支店
 口 座 番 号   23−130
 口 座 名  西 陽子 まで

よろしくお願いいたします

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12月E
参加者募集!!!
基地建設阻止行動およびテントで座り込みする人が必要です!!!
少ない時間でも、行動できる人は集まってください!!
あなたが行動することで現場の状況は変わる・・・・!!
どうか、よろしくお願いします!!
辺野古に来てください!!!

基地建設阻止行動のための緊急カンパのお願い!!
 辺野古では日米政府が「沿岸案」を合意し、座り込みはまだまだ続いています。。今後も基地建設を止めるには多大な資金が必要になると予想されます。全国の皆さんにカンパをお願いしたいと思います。皆さん応援をよろしくお願いします!!

 カンパを振り込まれる際は、下記の口座にお願いします。(このカンパのお願いは「ジュゴンの家」が、「命を守る会」を応援する気持ちで独自でやっています。振り込まれたお金は、辺野古での基地建設阻止行動のために使われます。)
●郵便局 17040−14225611  西 陽子 

国会前座り込みホームページヘ!!




「名護街宣大作戦!」のお知らせ

 名護市民は辺野古に注目しています。でも、なかなか現場に来ることができない、きっかけがつかめないという人達のために、辺野古の現場でおこっていること、今、名護市の全体の力が必要だということ伝えに名護市街へ出て行きませんか?


                        

☆飛び入り大歓迎!!

     一緒にビラまきをしたい人を募集しています。

 私たちは毎週土曜日、海上行動隊、海人のマイクアピールや
 ビラまき、写真の展示などを行います。皆さんもぜひご一緒に
 参加してください!!


☆作戦決行日:毎週土曜(雨天中止)
      14:
30 じゅごんの家集合!!(名護市城2−13−2)
      15:00 為又・
「洋服の青山」前で街宣開始!
      17:00 「じゅごんの家」でミーティング


「市長に会いたい!ランチタイム市役所行動」は、12月5日(月)をもって終了となりました。
2ヶ月間市役所に通いましたが、市長は一度も市民の前に現れることはありませんでした。



12月30日(金)
今日は、読谷村にある金城実さんのアトリエにお邪魔しました! ひとめで実さんのアトリエとわかっちゃう、すごい塀にまずびっくり・・・。
読谷村に突如現れる金城実ワールド!!
アトリエの中もたくさんの彫刻であふれていました。
実さんちの猫。 奥さんとの出会いから、昔勤めていた学校の話などなど、たくさんの話をしてもらいました。実さんの生き方にじゅごんの家の若者たちは衝撃を受ける。 ヨッシーとジュゴンの家の新しいCD「闘いのウタ」をプレゼント!
実さんからは「米代に・・・」とカンパをいただきました!
←アトリエで発見した「裸の王様のいす」

庭に置かれた、2007年に完成予定の100mにもわたる作品。→



さよなら名護シアター 最終特別上映
北部で1件だけの映画館。惜しまれつつ本日閉館。最後の上映は沖縄を舞台にした物語「海流」。1959年、復帰前の沖縄で撮影された作品。当時は沖縄に来るだけでも大変だった時代。作品にはいたるところに沖縄への気使いが感じられた。
タイムスリップしたような、ゆっくりとした時間の流れるロビー。
数々の名作を映し出した映写機
映画館は非日常の時間をすごす場所。ビデオやDVDが普及しても、この特別な場所は不動のものと思っていた。でも、悲しくも閉館。大好きだったのに力になれずにごめんなさい。桜坂劇場のように、いつか再び映写機が動き出すことを願っています。館長、長い間ご苦労さまでした。たくさんの夢をありがとう。


12月29日(木)

座り込み620日目
今日は寒い。雨も強い。 QAB放送の取材。
おなかがすいたので差し入れのレトルト米軍食を食べる。お味は、まあまあ、かな。 これらの座り込みは要炭火!


じゅごんの家日誌
あの北部唯一の映画館、名護シアターが明日閉館となります。
明日の特別上映は1959年に作成された沖縄映画「海流」。
館長は経営してくれる人がいれば映画館を譲る意向ですが、今のところ来年以降の再建の目途はたっていません。作品も貴重ですが、名護シアターで映画を見れるのはこれが最後です。

名護シアター↓
http://yanbarumeiga.hp.infoseek.co.jp/nagotheater.html

12月28日(水)
夏芽さんに沖縄を案内してもらいました!1日目
辺野古しか知らないじゅごんの家のために、夏芽さんがガイドブックに載らない沖縄を案内してくれました!!まずは「ひこうきの見えるレストラン」でお昼ご飯。どういうことかというと・・・ なんと、戦闘機が一望できるレストラン!嘉手納基地のすぐ横にあるレストランです。これは、空中で燃料補給が出来る軍用機。 嘉手納基地をバックにいただきまーす!
目玉焼きがのった、五目ラーメン。 ゆっくんはフライドチキン。予想以上の大きさにビックリ! まさに「一人パーティー」状態。
嘉手納「道の駅」の屋上から嘉手納基地を一望。 九州・沖縄サミットの時につくられた壁。
とっても圧迫感があり、見ているだけで息がつまりそう・・・。
常に戦闘機が空中をぐるぐる飛んでいる。 「安保の見える丘」
「道の駅」から見るのに比べて、ちょっと近いだけなのに飛行機のうるささ、臨場感が全く違います。リアルさを避けるため、わざわざ「道の駅」に防衛施設局が展望台をつくったのも納得。
「嘉手納ラプコン」
この管制塔が沖縄の空(半径50km、高さ6000m)を支配している。沖縄を飛ぶ全ての航空機が米軍コントロールに従わなくてはならない。
読谷村へ移動。ここは「トリイステーション」。ただの基地ではありません。紛争、テロなどに対処するプロ集団、心理戦・偵察・破壊活動を主に行う「グリーンベレー」が配備されている。
世界中の情報戦争、ゲリラ活動の拠点が沖縄にあるのです。
ここは、「チビチリガマ」。
「見学者及びボランティアの案内者へ」ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様がガマにはいって私達の肉親を踏み潰していることを私達は我慢できません。
←「象のオリ」

知花昌一さんが国体の時に、日の丸を燃やした会場。&旗が掲げてあったポール。→
沖縄国際大学。飛行機が激突した校舎はきれいになくなっていました。 嘉数高台に登る。普天間基地が見える。
一日目はこれで終了!アメリカ総領事館の近くのスタバで一服・・・。
本当に様々なところへ行きました。コーヒーを飲みながら、頭の中をいろいろな思いが駆け巡ります・・・。
夕ご飯は、うふざと教会の近くの定食屋さんでジャンボチャーハン。
夜は、会沢芽実さんのペンション
「まーみなー」に泊まりました!


でっかいわんちゃんのお出迎え→
ありがとうございました!
 
12月29日(木)
2日目
2日目の最初は佐喜眞美術館。 夏芽さんが連絡して下さり、佐喜眞美術館館長の佐喜眞御夫妻から長時間のお話をいただきました。
「普天間基地の中に戦前は8百軒も家が建っていたのよ」と佐喜眞さん。
美術館の隅々を短時間で細かい所まで話していただきました。
本当にありがとうございました!!
佐喜眞美術館を後にして平和資料館へと向かいました。・・・っと残念ながら平和資料館はお休み。
この後、カメラを忘れたことに気付きましたが、時すでにおそし・・・。文章で伝えることをお許しください。

☆佐喜眞美術館
佐喜眞美術館の中庭には海邦高校の生徒達によって集められた沖縄戦で亡くなった23万人の人の人数分だけの小石が置かれています。一つ一つに番号がふられています。しかし、海邦高校の生徒達は後に「沖縄戦の加害性」に気付き、石だけではなく、釘を23万人の人数分だけ打ち付けるという作業をしました。その釘は打ち付けた後に「鉄の暴風」をイメージして焼き、それを透明の壷に入れ、佐喜眞美術館の一角に飾られています。
佐喜眞美術館は普天間飛行場の一部を米軍用地借用延長(実際には強制収用)の際に佐喜眞夫妻が延長拒否をし、1992年に取り返した場所に建てられた美術館(真喜志好一設計)です。
佐喜真館長の一族の亀甲墓の前に建てられており、母の母体をイメージした作りです。屋上には6月23日に太陽が光を注ぎいれる空間も作られています。階段も6段と23段となっています。
美術館の中には丸木位里、俊夫妻の「沖縄戦の図」や「喜屋武岬」「暁の実弾演習」などの絵の作品が展示されています。
佐喜眞館長から絵の正しい見方やこれを描くに至った経緯、丸木哲学、丸木夫妻と出会う経緯などを詳しく1時間に渡って話していただきました。

☆ひめゆり平和祈念資料館
夏芽さん「この資料館は国や企業からの一切の援助はありません。すべてひめゆりの生き残りの人達による支援の呼びかけでの支援金と資料の売買などでまかなわれています。」
祈念資料館の一番最初に持って来ている写真は皇居の方向に向かって沖縄師範学校女子部(後にひめゆりなどの学徒隊になっていく)の生徒が直立不動で敬礼している様子です。
夏芽さん「この写真をよく見て欲しい。全てはここから悲劇が始まったことを知らなければならない。」

日本軍11万人 米軍上陸部隊18万3千 米軍後方支援54万8千

・皇民化教育。
「琉球舞踊」と説明書きされている写真は和服にされ、立ち位置が日本舞踊と同じということが良く分かる。
方言札によって生徒同士に監視をさせていた。「琉球言葉」を「方言」と表現していることも皇民化教育、同一民族化の差別の一つ。
お琴を授業の中に取り入れていた。琉球の文化というものを奪っていく経緯と歴史が写真で表現されている。
アジアで行われた皇民化教育が後のアジア各地で起こる分断と独裁政治に至ることも知らなければなりません。

・宮城先生(ひめゆり学徒の生き残り)のお話。
*現在、ひめゆり平和祈念資料館にはローテーションで高齢の語り部(元ひめゆり学徒)の方たちが4人ずつ来られています。高齢のために来られなくなっている方もたくさんおられます。語り部の方たちは後世に語り継ぐべく現在、後継者を育てるために若者達に学習会も開いておられます。

宮城先生は夏芽さんの小学校のころの先生です。辺野古から若者が来ているということを夏芽さんが話してくださり、宮城先生はいつもよりも長く、詳しく話してくださりました。
「(中略)私は33年間ひめゆりの話をすることが出来ませんでした。小学校の教師をしている時は一切話をしませんでした。あそこに飾ってある遺品は私達が私達の手で拾い集めたものです。兵士の排便を処理していたバケツも本物です。医療器具もすべて本物です。手にとって涙を流しながら集めました。二度と忘れることの出来ない、そして二度と繰り返してはいけないことです。戦争に向かっているこの世界を皆様の手で変えていただけることを切に願っています。」
話しが一段落すると宮城先生が「辺野古から来られているという方はどなたでしょうか。」と言われました。私達は立ち上がってあいさつをしました。
「あなた達ですか。そうですか。」「第三外科壕に配属されて、突然"解散命令"が下されました。私達がそれを受けてお別れ会を開いていると突然爆発が起こりました。一人が即死、負傷者も出ました。私は壕を出る時に8人の学友を置いていきました。8人を見殺しにしたのです・・・・」宮城先生は言葉に詰まり、涙を流してその場から離れました。
私達は宮城先生が言葉に出来ない苦しみを言葉にしようとしていることに深い罪の意識を持ちます。私達が変えられていない現在に、戦争が終わらない現実に苦しんでいる人がいることを心に刻まなければなりません。
夏芽さん「皆が辺野古から来ていると言ったら、先生はいつもよりも長く話して下さっていた。2,3日は眠れないかもしれない。僕は少し、話してくるよ。」
・映像として語り継ぐ
高齢になる語り部の方の話しを語り継ごうと映像の記録という形で映像が残されています。隣の部屋では語り部、一人一人からの話しがダイジェストで流されていました。私達は1時間ほど映像を見ていました。
涙が瞳から溢れそうになる。けれど流してはいけない。私達はその言葉、歴史を糧として向き合い、戦争の世界を平和な未来へと導かなければならないからです。基地建設を潰す、先祖が行った罪、そして沖縄における現在も続く、構造的な差別のせめてもの償い、差別をなくす第一歩として。

☆第三外科壕〜魂魄の塔
宮城先生が話してくださった「第三外科壕」。ひめゆり平和祈念資料館がある「第一外科壕」と違って何の整備も行われていません。登りやすいように階段がセメントを入れられて作られ、慰霊碑が建てられている。

夏芽さん「第一外科壕のように世間に広く知られている場所との違いがこう言う結果を生み出している。」

ひめゆり平和祈念資料館が映画や本などで広く知られるようになると「平和学習のメッカ」のような形になっていく。献花だけをして「こんな大変なことがあった場所だよ」と言って終わってしまう人達が多くいる。生活に戻ると自民党を支援をする人達もたくさんいる。戦争の加担者になっていることを知らず。
語り部の方たちの死力を尽くした言葉が全ての人達に響いているとは言いきれない現実です。受け止める側に多くの問題があることを認識しなければなりません。
辺野古で話をする私(富田晋)にも経験があります。私は辺野古に来られる方たちを「来た」一人一人として心から歓迎しています。その上で心に言葉が届かなかった人達も多くいることを知っています。小林よしのりなどはその良い例です(小林よしのりは自信著の"沖縄論"の中で"辺野古に来たが誰もいなかった""プロ市民も見えなかった"などと書いた)。
言葉足らずの自分と訴えても届かない個々の問題とがあります。その上で心から人を信じています。
第三外科壕は入り口から中をじっと見つめました。とても深く、暗いガマです。「8人の学友を・・・」頭の中に何度も宮城先生の声が響きました。言葉にならない場所です。

・魂魄の塔
牛島中将が「最後まで闘って散れ」と命じて身勝手に命を絶った6月23日。毎年、魂魄の塔の前ではその歴史を忘れず、繰り返させないために慰霊の日の集会が行われています。ひめゆりの塔から魂魄の塔までデモ行進をするあの風景はいつまでも脳裏に焼きついています。
夏芽さん「魂魄の塔周辺で畑を耕そうとした人達の手によって3万5千人の遺骨を拾われて作られた最初の慰霊碑。慰霊碑を作ろうとした人達は"これを作ったら米軍が怒って私達を殺しに来るのではないか"と最初は恐れた。"日本兵が南京(中国)で行ったことがそのまま帰ってくるのではないか"と言う恐怖と"鬼畜米英"という恐怖があったからだ。米軍との交渉の上で作られた。皮肉なことに畑を耕して1年目見事な実りを見せた。土に大変な栄養があったからだ。」

・夏芽さんのプチ平和雑学
〜八重山そば
「八重山そばは具が麺の下に入っている。それは琉球王朝時代に搾取されていた人達が具が見えると"余裕"があると思われ年貢を納めることを強制されるということからの知恵。」
〜金城十字路(南部にある十字路)
「死の十字路と呼ばれた。ここを逃げ惑う人達が大きな十字路だったために艦砲射撃の的にされ、たくさん生命を落とされたから。」
〜ウルトラマン
「ウルトラマンの幾つかの脚本を手かげた金城さんは怪物を殺さないウルトラマンを描いた。それはヒーローという形で描こうとするウルトラマンをそれだけではなく、社会の矛盾と照らし合わせて描いたものだった。」

今回、ガイドしてし下さった夏芽さん、佐喜眞さん、宮城先生多くの人に感謝したいと思います。この場を借りて、ありがとうございました。私達は今回のことを糧とし、沖縄戦を繰り返させない状況を作り出して行きたいと考えています。
辺野古から、若者一人一人から。必ず。
帰りは北谷で夕飯。じゃれあう二人。
ほやほやのカップルか!!
満足気の晋君。今日のことを噛み締めています。 オレはいつでもどこでもロックだぜ!!
コーヒー番長のゆっくん。


12月27日(火)

じゅごんの家日誌
「お昼はまだ?」と通りかかったお客さんがくれたおにぎり! 地元の女子中学生ご来店。ぬいぐるみと、なんだかわからないけどかわいい置き物を買ってくれましたー。 アクセサリーコーナー増設。貝殻の押しピンですてきにディスプレイ。


 沖縄・名護・辺野古の美しい海を埋め立て作ろうとしている新しい軍事基地建設を止めさせるために、おばぁたちが座り込みをはじめてから8年と600日以上。その怒りを正面からうけとめもせずに国は、ムリヤリ、かなりボーリョク的に着手し、調査のために建てられた5コのやぐらは、すでに海中のサンゴをふみくだいている。日本の各地で、世界で、この基地を作ることに対し、抗議の声がうずまいているとゆーのに。

 今、辺野古では、陸上での座り込み、海上・海底でのカヌーや船を使った阻止行動がつづけられており、那覇、大阪、京都、名古屋、東京では座り込みなどで辺野古のことを訴える活動が広まっている。これらを通じて辺野古を知り、これをじぶんの問題として重くうけとめた若者たちが辺野古にあつまり「カヌー隊」として活躍しはじめているところだ。

 弟のシュウは、船の免許をとり、「阻止船」を操縦している。巨大な作業船が辺野古に現れた日、通らせまいと、台船の進路に立ちはだかったが、台船は停まらず、シュウの船は何十倍もの大きさのその船に突撃、間一髪転ぷくはまぬがれたという。数年まえまでいわゆる「不登校」だった弟は、幸運なきっかけを得て、沖縄に行き、沖縄のかかえる問題を知り、辺野古のおばぁ達に出会った。おばぁ達に、学校では教えてくれないいくつものことをおそわり、「戦(いくさ)やならん、命どぅ宝(ぬちどぅたから)」とおそわった。これ以上、おばぁたちに、基地を苦しみを座り込むことをおしつけたくない、たった1人になってもここに立って止めよう、命をはってでも、と決めた。しかし、台船にぶつかる瞬間、シュウの頭をよぎったのは「かならず、生きぬいて帰ってきなさい、なにがあっても」という、おばぁのコトバと、大切な人たちの顔の走馬灯。死ぬわけにはいかない。なにがあっても生きていること、それ以上に価値あるものはない。おばぁの言葉の意味すること。弟の死がもたらす悲しみは、おばぁたちをも殺しかねないのだ。

 恋人のユウスケは、カヌー隊で、海上でのすわりこみをするため、名護でくらしている。ある日、仕事をやめ、彼は「辺野古に行こうと思う」と言った。それは、唐突ではあるがまるで必然のようだった。生活=お金のための生活をやめて、イメージに近いほうを選ぼうとしていたユウスケ。辺野古のことは知っていた。基地ができれば、もちろん自然はこわされ、それ以上に人がたくさん死ぬ。ねがいは、ただ、「幸せになること」。だからこそ、目の前に見えている脅威を見てみぬふりをして自分を偽ることはできない。ほんとうに幸せになりたいから、止めに行く。それが、ユウスケのイメージだ。ものすごくシンプルに、「好きな人を失いたくない、悲しませたくない」から、この不穏な世の中の流れを止めるために動く、その中でいま1番焦点になっているのが辺野古だったのである。

 カズマサ君は、仕事をやめてから、地元・名古屋と辺野古を行き来し、名古屋では街頭アピールなどで広め、辺野古では、はげしく船酔いしながらも必死で阻止行動をしている。

 サチコは施設局側の作業員との攻防で1度、指を3cmきり、流血したが、今日も笑顔で海に出て行き、カヌーをこいでいる。

 彼らは全員20歳代だ。若いからと言って失うものがないわけではない。仕事も、恋人もギセイにしてきている。
家族や友人の理解が必ずしも得られるわけではない。経済基盤も保障ももちろんない。
彼らはなにも好き好んで「たたかい」に来ているのではない。それぞれの意志で来ているのは確かだが、闘いたくて
闘っているわけではないのだ。ほんとうなら、好きな人と好きな場所で心おだやかに暮らしたい。
世の中が本当に平和なら、やりたいことは他にもっとある。
 それでもかれらが辺野古に来るのはなぜか。
 どうしても、今止めなければならないから。
 人の命をなんとも思わない人々がゆるせないから。
 命が大切と言うことだけは、どーしてもゆずれないから。

 私自身は東京で店を持ち、そこから発信していくために東京でやることに決めたため、辺野古には行けない。
先日も顔を蹴られるなどの暴行をカヌー隊メンバーが作業員から暴行を受けたとの報道があった。
東京で、はなれた場所でそのようなニュースを耳にすると、怒りとかやりきれなさが体中をうずまいて
いてもたってもいられない気持ちになります。今すぐにでも辺野古に行きたい。
 ケガさせられたり、あるは殺されたり、捕まったり。自分の大切な人がそんな目に、いつ合わされるか分からない状況
の中で、日常をおくらなければならないのが辛い。はなれていて手と足もだせない、叫んでも届かないのが辛い。
 ものすごく個人的な話ではある。
でも、自分の大切な人のいのちが大切なのは、誰でもあてはまるはずである。
自分の周りの人を大切に思うことと、戦争をなくそうと思うことは同じことだ。
大切な人が死んだらイヤだ。だから 戦争はやめよう、基地はいらない。
足りないのは、あと少しの想像力。イラクやアフガニスタンで、パレスチナで、亡くなった人々の周りの気持ち。
周りの人々のきもち。悲しくないわけがない。怒りがわいてこないわけがない。

 もう一度 問いかけます。辺野古の若者たちの「命を守るたたかい」にあなたは何を思いますか。 
 私たちは、辺野古で闘う若者たちの友人・知人・家族として、彼らの生活を支えるためのカンパを訴えます。
彼らが心置きなく行動するためには、1人・1ヶ月の生活資金・5万円ぐらいかかります。5万円×5〜6人を毎月作りたいと思っています。

 東京の「街」では、できるだけ多く地域の人たちが参加してくれるために「100円カンパ」を始めました。
 家族会も結成されました。

 ご協力をよろしくお願いいたします。
 太田武二(命どぅ宝ネットワーク)、ヨッシー(友人)、佐竹周一(友人)、中馬由紀子(友人)、中野高(友人)、富田直子・剛・翔子(家族会)、赤羽則子(家族会代表)、ハネやん(家族会)、末木(家族会)、
1/15 現在
郵便局 10020−84023361
赤羽 則子

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