ジュゴンの家・日誌

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7月H
参加者募集!!!
阻止船に乗る人、海上のやぐらおよびテントで座り込みする人が必要です!!!
少ない時間でも、行動できる人は集まってください!!
あなたが行動することで現場の状況は変わる・・・・!!
どうか、よろしくお願いします!!
辺野古に来てください!!!
海上行動用のダイビングスーツも募集しています。使わない物があれば、是非ジュゴンの家の住所まで送って来てください!!お願いします・・・!!

海上調査阻止行動のための緊急カンパのお願い!!
現在、辺野古ではボーリング調査を阻止するための阻止行動が行なわれています。とりわけ「海上調査阻止行動」が重要になっています。リーフ外での防衛施設局の調査を阻止するための行動船を調達するための資金が圧倒的に不足しています。

 今すぐに数100万円の資金が必要です。全国の皆さんに緊急カンパをお願いしたいと思います。皆さん応援をよろしくお願いします!!

 カンパを振り込まれる際は、下記の口座にお願いします。(このカンパのお願いは「ジュゴンの家」が、「命を守る会」を応援する気持ちで独自でやっています。振り込まれたお金は、辺野古でのボーリング調査阻止行動のために使われます。)
●郵便局 17040−14225611  西 陽子 

国会前座り込みホームページヘ!!

辺野古より緊急連絡!!!

海面に油広がる 水陸両用車沈没 (琉球新報6/10夕刊)

 【名護】名護市辺野古沖で9日に沈没した米海兵隊の水陸両用車から油が漏れ出して周囲の海面に広がっていることが10日午前、分かった。米軍は市に「油漏れ対策として、9日に化学剤による中和作業をし、10日にも行う」と説明している。
 目撃した人によると、米軍は10日午前8時ごろから現場にゴムボート2隻を出し、数人の潜水士が潜って部品状のものを引き揚げるなどの作業をしていた。通常の中和作業で見られるオイルフェンスを張って薬剤を散布する様子はなかった。辺りには油のにおいが立ち込め、午前9時ごろ、米兵が現場を離れた後にも海面には幅3、4メートル、長さ2、30メートルほどの油の帯が残っていたという。
 米軍がどのような手順で中和作業をするのかは分かっていない。午前の作業の後、米軍は10日午後零時半現在、現場に現れていない。 

那覇防衛施設局はこの油漏れに対して、現在何の対策も行っていません!!
一刻も早い油の回収、オイルフェンスの設置を防衛施設局へ訴える抗議の電話・FAXをよろしくお願いします!!
那覇防衛施設局  電話098−868−0174
             FAX098−863−1750

 ボーリング用のやぐらが珊瑚を破壊・・・!!
3月17日(木)にきた台船を留めるために、荒波の中無理やり降ろしたアンカーが、
再びサンゴを破壊していた。
海底に潜った夏芽さんたちが撮影した写真が見られます!!

ここをクリック!!





「名護街宣大作戦!」のお知らせ

 名護市民は辺野古に注目しています。でも、なかなか現場に来ることができない、きっかけがつかめないという人達のために、辺野古の現場でおこっていること、今、名護市の全体の力が必要だということ伝えに名護市街へ出て行きませんか?


                        

☆飛び入り大歓迎!!

     一緒にビラまきをしたい人を募集しています。

 私たちは毎週土曜日、海上行動隊、海人のマイクアピールや
 ビラまき、写真の展示などを行います。皆さんもぜひご一緒に
 参加してください!!


☆作戦決行日:毎週土曜(雨天中止)
      14:
30 じゅごんの家集合!!(名護市城2−13−2)
      15:00 為又・
「洋服の青山」前で街宣開始!
      16:30 名護十字路近く・「オキマート」前で街宣開始!
      18:00 「じゅごんの家」でミーティング





7月29日(金)
「NO BASE HENOKO」のメンバーと伊江島・「ヌチドゥタカラの家」に行きました!!
本部から伊江島へのフェリー。
風に吹かれるしょうちゃん。
ちょっと遅めの昼ご飯。 なかなかGOOD!!
タッチューが見えてきたぞー!! 本部港のでかでかフェンダー。
写真には撮れなかったけど、この時、悠々と泳ぐ海カメを港内で発見!
伊江島とうちゃーく! 車を走らせ・・ ヌチドゥタカラの家に着きました。
第2次世界大戦末期、日本軍が伊江島を侵略して出撃基地としました。そのため米軍の標的となり、子どもから大人まで3、500人以上の尊い人命が奪われました。 「戦争が終わって10年経った1955年3月。米軍による土地の強制収用が行われた。耕地を奪われた島の人々は生きるために米軍を相手に長い必死の闘いを続けざるを得なかった。」 伊江島の方々はアメリカ政府だけでなく、日本の責任も徹底的に追及しています。
 資料館の中には、島の方々の抵抗の歴史の写真がたくさん展示されていました。家を焼き払われ、食べていくための畑も奪われ、テント暮らしをせざるをえなくなった家族。子どもたちの顔に刻まれた深い皺。1枚1枚に映った人々の姿にとても胸を打たれました。
座り込み467日目
 おはようございます。

今日は強い南風。PEACE フラッグも勢い良くはためきます!
朝九時頃 作業船が出港してきました。久しぶりに、サンコー、パシフィック同時です。  サンコーが向かってきたので、第2ポイント警戒態勢! 第2を通り過ぎて第5に向かった!ナイワイが追いかけます。
第5ポイントでは、以前 金網を張ったとき、ハシゴを掛けるために取り付けたパイプを、撤去したいという要求のみを許可。
辺野古の闘いの記録が、日本ジャーナリスト会議のJCJ市民メディア賞 受賞のウレシイ知らせと共に、大島さん登場!!

「辺野古の闘いの記録が受賞したのは、僕の功績ではなくて、みんなの辺野古の闘いが認知されている証拠なんだ」と熱く力説する大島さん。

   受賞の詳細はこちら!
午後はサンコー、パシフィック合同で各ヤグラをまわっての排除勧告。
あ〜うるさい!!
 「戦やならん!」って言ってるでしょうが!! 作業船警戒船合わせて6隻に対し、こちらも4隻で追いかけ、ヤグラの周りを囲んでガードを固める!
そこに、激励船 平和丸登場。応援しにきた人たちを乗せて、一緒に追う。

施設局員による排除勧告。
「善意で退去を呼びかけている」と言うのに対して、ヤグラ座り込みのメンバーから「あなたは公務員でしょ?お金をもらって仕事としてやってるんだから、善意じゃないでしょ?」
返す言葉も無く、施設局員タジタジ・・。
今日は午後3時に作業船が撤収したため、まだテントの座り込みをしているうちに帰って来れました。 今日の海上行動の様子と、辺野古のこれまでの経過を説明するとおるさん 「基地はいらん」の のぼり、新しく作ったそうです。
晋くん日誌
今日の状況
7月28日(木)
・防衛施設局による違法な強行調査を阻止しています。

〜台船に動き〜
中城湾口に泊められている作業台船に動きがありました。作業台船に乗っけるスパット台船(外洋用のヤグラ)が台風のため一時的に解体して漁港に陸揚げされていましたが、今日の時点での確認では、スパット台船が組み立てられた状態でいつでも作業台船に積み上げられる位置にあるとのこと。
油断は出来ません。

〜今日の海上〜
午前中はサンコーだけが動いていました。
那覇防衛施設西局長が「ボーリングを行ってからでなければヤグラは絶対に撤去しない」と言明したことに対して私達はものすごく怒りを持って受け止めています。
全ての作業は一切を認めてはいません。
ただ、「航行の安全を守る」ために赤旗の交換と安全灯の交換については認めています。
ですから、今日のサンコーによる交渉においても第二、第五では全ての作業は拒否し、安全灯の点検および電池交換だけを認めました。

その後、午後1時30分にはパシィフィックも海上に出てきました。
サンコー、パシィフィック合同6隻による各ヤグラでの「排除勧告」が始まりました。
作業員。
「このヤグラはボーリング調査のためのヤグラです。ボーリング作業の支障となっています。即刻退去して下さい。」
防衛施設局員。
「ボーリング調査は日米間で合意されたSACO合意に基づいて行われているものです。普天間返還に伴う基地の整理縮小の支障となっています。ヤグラから下りなさい。」
といったことを繰り返しハンドスピーカーを使って言って来ます。

防衛施設局員による「整理縮小」発言は国の主張そのもので絶対に許せないものです。「基地を作ってどこが整理縮小なの?」とこちらが聞くと施設局員は答えられない。絶対に基地なんか必要ありませんが、「規模的な縮小」という政府の主張はどこにも信憑性がない。
普天間飛行場という地域的な不便さ、古くなった滑走路、効率的な飛行、戦略的飛行、最新機の配備、その全てを改善し、超ハイテク基地にすることのどこに「縮小」のしの字が出てくるのでしょうか。
普天間基地返還は沖縄の要求を政府がのむなら「無条件返還」のはずです。それをうまくごまかして「移設」にすりかえたのが「SACO合意」だということさえもわかってはいない。
10万人もの人たちが立ち上がった怒りを政府は何も分かろうとはしない。でもそれは同時に10万人の怒りを受け止めきれていない私達の責任でもあります。
いますぐに政府は沖縄の要求をのんで全ての基地を撤去するべきです。

その後、午後3時頃からパシィフィックの方も第一、第三を回り、赤旗の交換と安全灯の点検だけをして午後5時30分には帰っていきました。

〜テント村〜
今日はドイツからも「日独平和フォーラム」の人たちが15人ほど海上に出て、一緒に阻止行動を行いました。
夏休みに入ってから各地に散っていた人たちが戻ってきたり、労働組合関係者も大勢駆けつけて今日のテント村は常時80人ほどいるという状況でした。

海上から引き上げが始まった頃に雷雲が近づき帰りはみんな追われるように陸に上がりました。
マシュポファイル 5
「船の免許取ろうか?」って仲間内の軽いのりで言い出したのはその頃でした。僕は3月に一度実家に戻ることを予定していましたが、その後どうしようかと悩んでいました。周りには進学や就職など目的を持ちながら、でも辺野古のことをもっと広げるから!!って約束して地元に戻ってゆく仲間がいて、自分には辺野古に残れる自由がありました。それはある意味ぜいたくな気がしました。だったら本気で免許を取ろうと決めて、本当は名古屋行動を起こすように言われていましたが、そんな軽いのりの固い決意で、もっと本格的に阻止行動に参加することを決めました。

免許を取りに行く前日 朝6時に辺野古に来ると、すでにスパット台船が海に浮いているということがありました。その日は海上保安庁と攻防戦をする羽目になり、余計に気を引き締められ、1週間ののちに免許を取ったら取ったで、今度は夏芽さんのスパルタ教習が待っていました。

毎日プレッシャーがかかり胃は痛くなるし、立つことができなくなる日もあって、日常やたらため息が増えました。施設局がメディアを通じて作業強行を発表した4月21日を前に、1級船舶免許が手元に届いて、夏芽さんにそれを見せると「今までの非礼をお詫びいたします」と言ってくれました。

でも、そのスパルタのおかげで操船だけじゃなく、風向き、潮流、天候、気象条件、波の高さ、それらの急な変化への対応、海底の地形などを知り、漁をしている船や釣り人だけじゃなく、ジュゴンや海ガメにも配慮することを教えられ、何より船に乗る人たちの命を預かっているという船長としての責任。その一番大切なことを習わせるために、厳しかったんだと思います

4月20日の強行作業の時には、それぞれの地元へ帰っていった、たくさんの若者がまた戻ってきてくれました。どうなるか分からない不安の中「ただいまぁ」みたいに次々現れる彼らの「強行されるって聞いたから、やばいと思ってきたわぁ」みたいな重苦しくない様子にすごく救われました。

結局強行作業は20日から3日間、新しいやぐらの設置という形で行われました。朝からシュワブの浜にトラックが来て、ユニック(クレーン)で単管を降ろしているのが見えました。いつもの倍の人数の30名以上の作業員がそれを作業船に積み込みます。

自分が船長として迎える初めての大仕事で、腹がギュウギュウに苦しくなりましたが、我慢して深呼吸を何度も何度も繰り返しながら単管40本を積んだ船を追いかけました。

その日はサンコー・パシフィック合わせて3隻船団が4つ、計12隻で7箇所に新しいやぐらを組み立てようとしてきました。こちらも海人の船に飛び込み隊を乗せて追いかけました。

こちらが飛び込めば海中でのトラブルを避けるため、作業の手を止めることもありましたが、飛び込み隊の1人が作業ダイバーに足を引っ張られて沈められる危険な場面もありました。

僕もヤグラを組む単管パイプが海底の岩に引っかかっていたのを引っ張って、ゆすって、クランプをはずしたまでは良かったんですが、フィンを履いていなかったので持ち上げられず、溺れて作業船に助けられてしまいました。施設局員に注意されて、「強行するからいけないんでしょ!」と言い返しましたがやっぱり怖かった。「おばぁたちと約束してるから、絶対死にそうなことはしないんです!」って叫んだのも自分への戒めとして言ったんだと思います。その時3日間に渡る強行は多くの人が参加してくれたので、何とか作業を阻止することが出来ました。

ただ、2日目は僕にとって3日間で1っ番大変な日でした。夏芽さんが朝から仕事でいなかったため、彼不在の船を運転する僕に対して、作業員や船を運転する辺野古の海人からは、強い口調で警告されました。「離れろ!!」って言われても離れたくないし、言われてるばっかりで何か一言言い返したい!!って思ったとき、そうだ!夏芽さんのマネをしよう!と、ありったけの声で「すいません、すごく失礼なことしていると思いますけど、でも、どーーしてもとめなきゃいけないんです!ごめんなさい!」って言いました。そんなこと聞いてはくれないかと思いました。でも、相手は警告を一旦とめてくれました

その後もまだシロートの運転だったので、作業船を追いかけてぶつけそうになったり、アンカーの打ち方に文句を言われたり、ポイントブイをプロペラにからめてしまったり、まぁ作業を邪魔することで結果的に阻止していたのかもしれませんが、その1日ですんげー疲れました。

でも、その日以後船長として会うようになってから、向こうの人に「マシュポ、マシュポ」と呼ばれることが増えて、時には運転のアドバイスされたり、世間話とか愚痴を聞いたりするようになりました。

やっぱり強行されたり暴力ふるったりすることよりも、毎朝顔を合わせることのほうがお互いに苦しいんだと思います。なおかつ作業員や船長は仕事としている以上、施設局に指示されれば、こちらを暴力で押さえつけてでも作業をしなければならない。

戦争というものが普通の人を普通の精神状態ではなくさせ、人殺しに駆り立てていく縮図を見ているような気にもなりますが、彼らにも労働者として、上からの指示を跳ね除ける力を持った 社員同士行動を起こせる関係性を作ってもらえたら本当は一番いいと思います。

そのEへつづく

HPへ掲載するに当たり、一部加筆・修正をしました。
この文章の転載などを希望される方へ、まずはじゅごんの家のメールアドレスまでお問い合わせください。よろしくお願いします!
琉球新報


音楽で反基地を確認 辺野古抗議の座り込み200日

三線やギターなど、思い思いの楽器で辺野古沖でのボーリング調査中止を訴えたミニコンサート=28日、那覇市前島の防衛施設局前

 名護市辺野古沖で行われている米軍普天間代替施設建設に向けたボーリング調査の中止を求め、市民らが那覇市前島の防衛施設局前で座り込みを始めて200日を迎えた28日夕、同局前で「スピーチ&ミニコンサート」が開催された。約40人の参加者らは音楽を楽しみながら、基地建設の中止まで闘い抜くことを確認した。
 昨年の11月から座り込みを続けている山口洋子さん(65)は「強大な日米両政府相手に、この日まで抗議を続けられたことを誇りに思う。座り込みはこれからも続くが、気持ちを切り替えて楽しもう」と呼び掛けた。
 コンサートでは歌手のまよなかしんやさんが「命の海に基地はいらない、辺野古の海にくいは打たせない」と歌い、参加者らは一緒に声を上げた。

7/29 14:24


黒焦げの壁記憶に 沖国大生らが写真展計画

「私の見た壁―1000の記憶」写真展に応募された作品

 昨年8月の米軍ヘリ墜落事故から1年を迎えることから、沖縄国際大学(渡久地朝明学長)の学生らが、写真展「私の見た壁―1000の記憶」を計画している。
 事故が起きた昨年8月13日以降に、学内外の人たちが撮影した1号館(本館)の黒焦げの壁の写真を展示し、あらためて事故について考えようというもの。8月13日から16日まで、同大5号館ロビーで開かれる。

 実行委は1000枚の作品展示を目指しており、既に100点の応募があった。韓国や米国から寄せられた作品もあるという。
 実行委メンバーで、壁の保存運動にも携わった総合文化学部2年の安達菜子さん(21)は「壁を通して、事故についてたくさんの人がいろんな事を考えたと思う。1年後の日に、そのことを思い出したい」と話している。
 写真は、電子メールと郵送で受け付けている。メールアドレスはkabe_1000@yahoo.co.jp 郵送は〒901―2299宜野湾市愛知28の1宜野湾郵便局私書箱123号「私の見た壁1000の記憶」実行委員会。

7/28 14:32

沖縄タイムス 2005年7月29日(金) 朝刊 2面
さんご礁9カ所損壊/米車両沈没 施設局公表
 那覇防衛施設局の西正典局長は二十八日の定例記者懇談会で、名護市のキャンプ・シュワブ沖に米海兵隊水陸両用車が沈没した事故の被害調査で、計九カ所のさんご礁の損壊を確認したことを明らかにした。

 調査は施設局と米軍、名護漁協の三者で今月二十一日に実施。その結果、沈没地点の水深約四・五メートルの海底で七カ所、計約三・六平方メートルのさんご礁の損壊を確認。さらに、米軍が車両回収時に委託した民間会社のクレーン船が停泊していた部分で二カ所、計約二・一平方メートルのさんご礁の損壊が判明したという。

 また、西局長は金武町のキャンプ・ハンセン「レンジ4」の都市型戦闘訓練施設の実弾射撃訓練に反対する県民集会に一万人(主催者発表)が参加したことに「そうした形での意思の表示があったことを重く受け止めている」との認識を示した。

QAB琉球朝日放送

2005年 07月29日 (金曜日 夕)

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Qリポート 戦争を語り継ぐということ〜虹の会〜

沖縄戦当時、壮絶な体験をくぐり抜けたひめゆり学徒隊の生存者たちが自らの体験を語り始めたのは今から20年ほど前、糸満市の資料館が完成した頃のことです。それから歳月は流れ、戦後60年。体験者の数は年々少なくなり戦争の記憶の風化が叫ばれるなか、去年「虹の会」という会が結成され10代や20代の若者たちが学徒隊の生存者と向き合い、オーラルヒストリやフィールドワークを重ねてきました。その虹の会が先週、最後の学集会をおえました。比嘉雅人記者のリポートです。

証言者たちの前で、去年から一年間に及んだ会の感想とそれを通して得たものの発表を行う、虹の会の若者たち。虹の会はおよそ一年にわたって「体験者の記憶を受け継ぐ」ことを目的に活動を重ねてきました。目指すのは体験者の心に近づくこと。生存者たちの体験を、これまでのように講話として聞くだけではなく、自主的な学習から生まれた質問をしながら聞き取りを重ね、ある時は彼女たちの歩いた道のりを辿りました。

この一年の活動を通して感じたこと、学んだこと。そして自分なりに戦争と平和をどう伝えたいのかを発表する、最後の学習会です。心象を描いたり、壕の前で模擬ガイドをしたり。それぞれのやり方で、彼らは思いを形にしました。

「何が、この疑問の答えなんだろうということを実際にさがして貰いたいと思います」

学生時代から平和ガイドも経験し、今年から中学校の教師となった北上田さんは、授業形式で発表を行いました。戦争を知らない世代が、さらに若い世代に、戦争を教える。この現実に真摯に向き合うことを、北上田さんはこの一年を通して考えました。

News Photo

「自分がどうやって、もっと若い人に伝えていくのかということは自分なりに試行錯誤は続けてきたつもりで」「僕が伝えようとしている相手、もっと若い人たちと同じ立場だと思うんですよ。体験者が少なくなったときに一緒に考える、一緒に学ぶ、対等な立場で戦争のことをどうやったら一緒に考えられるかなと」「私は、戦争を拒否する手段を、皆さんの経験からまなぶことができると思います」

赤嶺玲子さんも学生生活の傍ら、平和ガイドとしても活躍しています。虹の会で学んだこと、感じたことのまとめとして、彼女は学徒隊として動員された点に焦点をあてました。当時の学生たちの家庭環境や気持ちなど証言をあつめ、「どうすれば動員を拒否できたか」を発表したのです。それは、友人との別れを経験した生存者を前にして大胆な発表ではありました。しかし彼女は「いまを生きる私たちにとって、彼女たちの記憶から学ばなければならないこと」を考え、あえてこの手法を選びました。一年間、彼女たちと心を少しずつ寄せ合った上での選択です。

「勉強しなきゃいけない部分、いま一番必要な知識がつまっているのが動員の部分。たくさんヒントが貰えると思ったので、先生たちを傷つけることになるかも知れないけどやらなきゃいけないという気持ちでやりました」

「もう"行かなきゃいけない"というところまで追い詰められるのが戦争の時代だと思うんですよ。それはしっかり押さえないといけない、そういう時代を作らないように若い人たちが努力しないといけない。これが大きな課題です」

このやり取りは今までの平和教育からは生まれてこなかったことかも知れません。戦争はいけない、平和は大事だ、ということは教えても「なぜ」戦争がいけないのか、「なぜ」平和が大事なのかを受け継ぐほうに、頭と、そして心の両方で考える行為が欠けていたともいえます。

News Photo

「ようやく心に染みた、言葉が心に届いたと思うんですよね。それをどう伝えていくか、ようやくスタート地点に立ったという意味で」「だからと言って、じゃあまだ伝えられないかということではなく今まで学んだことは十分"伝える人"になっていると思います」

「今ならなんとかできるわけですから、今できることからまず始めて、そして考えたこと思ったことだけじゃなく行動に移して(カット)今日で終わりじゃなくて私もあなた達と一緒にいろんなことを勉強していきたいと思ってますから」

この一年間、生存者とのふれあいによって成長した彼らを通して下嶋さんは、「戦後」を生きる我々がいま何をすべきかをみつめています。

「ことし60年、70年目にはもしかしたら体験を聞くことはできなくなるかも知れない。そういうときにこれからの10年をしっかりと、人間教育の問題として戦争体験を語り継いでもらいたいと思います」


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7月28日(木)
座り込み466日目
かっちゃんにかっちゃんTシャツを見せびらかす晋くん

←東京行動のみんなも海に出ました

かっちゃんに念願のかっちゃんTシャツ
           が手渡された瞬間→
朝、第2ポイントを素通りして第5ポイントに向かうサンコー船団。
第5ポイントでは警戒態勢に入る
やぐらの周りをぐるぐる回る
きらきら光るのは全て小さなクラゲ。刺しはしないもののまるで
くらげ風呂に入っているかのようでみんな気味悪がっていた。
結局安全灯の交換だけをすることに。
←その最中、夏芽さんがゴンベーへ。

   ひさしぶりに悪だくみをする3人→
日独平和フォーラムの人たちもやぐらに登る
第3ポイントでは安全灯の交換を許可 安全灯交換の監視中!? 少し遅れた誕生日プレゼント。
かつT
じゅごんの家日誌
夕飯を作るさなか、華麗なエアギター
を披露するゆっくん。
みごとなソロでみんなの目は釘付け
(エアギターで)
そしてフィニッシュ!!そしてレタスを
奪い合う3人
みんなが写真をとるもんで
結局3人しかはいっていない
そしてできあがったのはカレーうどん&冷しゃぶ
マシュポファイル 4
暴力と言うのは具体的に言うと、5箇所の単管ヤグラに朝7時前から海上行動隊が5〜6人づつ座り込み、パイプの上に立ってしがみつくという 足元もとっても不安定な状態で阻止行動が続けられていました。

そこに作業船が来て、作業員が10人以上登って来て、作業を阻止しようとすると作業員にロープで体を縛りつけられて動けなくさせられたり、一人に対して3人の作業員で押さえつけに来たり、足場板を引かせないようにパイプをつかむとそれでも容赦なく手の上に板を引いて、上から何度も踏みつけたり証拠写真を撮ろうとすればカメラごと蹴られるなどということが次々と起こりました。

そんな時、作業責任者である施設局員はいつもヤグラには近づきもせず、船の上からその様子を見ているだけだったそうです。

2週間にわたって続いた暴力事件でたくさんのケガ人が出ました。中でもやぐらから落とされ、作業船に首から転落した女性や、足をつかまれた状態でヤグラから落とされ真っ逆さまにパイプへ頭から落ちて、一時意識不明になった男性は2人とも本当に死んでもおかしくない事件でした。

辺野古の闘いは伊江島の阿波根昌鴻おじぃたちの非暴力の闘いを手本に作業員や船を貸している辺野古の漁民は生活を人質に取られているという視点から、絶対に敵にしないようにしてきましたが、その時ばかりはサンコーコンサルタントとパシフィックコンサルタンツの2社に対しHPやメール、電話などあらゆる手段を使って辺野古の危機を伝え、それに対する抗議行動を全国に呼びかけました。

そのおかげで強行作業も収まり、そして僕らへの協力者も現れました。ピースボートを通じて作家の灰谷健次郎さんからナイワイ7世という大型船を貸していただくことができたり、他にも、2月から世界的な環境保護団体であるグリーンピースが「戦争は最大の環境破壊」という思いから参加してくれたり、3月にはアメリカ国防総省を相手取った沖縄ジュゴン裁判で辺野古のジュゴンがアメリカの文化財保護法で保護されるべきだという中間報告がでて、今後も基地建設中止に有利に動く見通しがたちました。何より力強かったのは、沖縄の東海岸で漁をする海人たちが、阻止行動に参加してくれるようになったことでした。

海上での闘いだけではなく、漁業権や生活権の裁判を起こしたりと辺野古の状況は一変しました。

海人の中でも最初に立ち上がって仲間に呼びかけてくれたのが、国頭村にすむ山城善勝さん(通称かっちゃん)でした。黒いTシャツの背中に真っ赤なハイビスカスの刺繍を入れて、カウボーイハットにウエスタンブーツの とても60歳にはみえない海人で、基地建設を受け入れた辺野古の海人と対面したときには「漁業権は海を荒らしてもいいという権利ではない。海人の先人たちから受け継いだ海を守るための権利なんだ!おまえ達、魚に顔向けできるのか!」とかっちゃんにしかできない説教をしてくれました。

かっちゃんは2月に名護の僕らの家の近所に引っ越してきて、家に遊びに来て一緒にお酒を飲みながら「僕は君達に謝らなければならない」と突然言い出し、「海人にとって海を守ることは当たり前のことなのに、君達は海を守っても全然お金にならないのに、やらせてしまってすまないと思っている。今まで遅くなってすまなかったけど、明日からは僕に任せて欲しい。」と言ってくれました。

かっちゃんだけではなく金武、石川、宜野座、東村などからもたくさんの海人が協力してくれています。1月と3月にスパット台船が動いたときには、彼らの協力が無ければ設置されてしまったんだろうと思います。

春休みのシーズンに入ると、全国からたくさんの人が辺野古に集まり、阻止行動に参加してくれました。

そのDへつづく

HPへ掲載するに当たり、一部加筆・修正をしました。
この文章の転載などを希望される方へ、まずはじゅごんの家のメールアドレスまでお問い合わせください。よろしくお願いします!
QAB 琉球朝日放送

2005年 07月28日 (木曜日 夕)

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水陸両用車被害状況 さんご礁9ヵ所に損傷

アメリカ軍水陸両用車沈没によるさんご礁の破壊です。先月、名護市辺野古沖で発生した水陸両用車沈没事故で、那覇防衛施設局は9カ所でさんご礁の破壊があったとの調査結果を公表しました。

先月9日、アメリカ海兵隊の水陸両用車が辺野古の海で訓練中に沈没した事故を受けて、那覇防衛施設局は、アメリカ軍が水陸両用車を回収した後の今月21日に、名護漁協とアメリカ軍の三者でさんご礁への被害状況を調査しました。その結果、水陸両用車が沈没した場所でさんご礁が7カ所、押しつぶされた形で破壊されていました。さらに水陸両用車を引き上げたクレーン船の下にあったさんご礁にも2カ所で損傷の跡がありました。

今回の沈没事故ではさんご礁だけでなく油漏れも確認され、県がアメリカ軍に事故現場への立ち入り調査を求めましたが、この要求が拒否され、アメリカ軍の対応があらためて問題となっています。


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2005年 07月28日 (木曜日 夕)

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日露戦争100年 戦争の原点を考える

今年は日露戦争開戦からちょうど100年の年に当たります。この日露戦争現在、歴史教育では近代化や強国化をもたらした戦争として肯定的に教えられているのですが日露戦争にこそ沖縄戦の悲劇を生んだ原点があると1人の教授が本を出版しました。秋山記者の報告です。

又吉先生「沖縄戦まで日露戦争で決められた形が引き継がれている。沖縄戦における沖縄の人たちの戦死は日露戦争の中で決められたといっていい関係がある」

現在、沖縄大学で教鞭をふるう又吉盛清先生。東アジア地域研究の専攻で沖縄と日本そして植民地下にあった台湾との関係について長年実態を研究しています。 戦後60年の今年。又吉先生は、開戦から百年の節目を迎えた日露戦争が沖縄戦など近代の侵略戦争の原点であったことを訴えたいと、一冊の本を出版しました。

又吉先生は、日露戦争は沖縄の人々が初めて日本帝国の軍人になり、侵略戦争と植民地支配の国策に加担し犠牲になった最初の戦争だと話します。

News Photo

又吉先生「日露戦争も含め、近代日本の戦争はどちらかというと侵略戦争だった。そういう戦争の中で死ぬと言うことは二重三重の不幸である。」

沖縄から2000人余りが派兵され、205人の命が失われた日露戦争。今回、又吉先生は、数々の戦場の中から、最も沖縄軍人の犠牲者が多かった遼陽・首山から、205個の石を持ち帰りました。

又吉先生「不幸にして戦場で亡くなった人たちの亡くなり方がこれでいいのかと沖縄、全国の人たちに戦死してはいけないと訴えたい」

「戦争で死んではいけない」又吉先生は本の出版にあわせ写真展を開きます。写真を通して、活字からは見えない戦争の意味を考えてほしいとの願いを込めて。「デスクワークとフィールドワークを絶えず行ったり来たりさせながら歴史の真実を浮かびあがらせていく今後もそれを続けていきたい。」

この写真展は那覇市のぶんかてんぶす館であすから、来月3日まで開かれます。


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7月27日(水)
今日も元気に出港!
すでにカヌーが到着していました。 日よけのシートも張って、 監視体制はばっちり。
突然、夏芽さんに「無線をよく聞いて!」と、ピースメーカーでフィリアにやってきたまんちゃんから指令が。何のことかわからずとにかく、無線に耳を傾けると・・・無線で各ヤグラからハッピーバースデーの歌が聞こえてきました!!なんと今日は夏芽さんの誕生日! そして、ピースメーカーに隠れていたネギが、夏芽さんに、魚肉ソーセージで作ったレイを渡す! 最初は自分の誕生日だということを忘れていた夏芽さんでしたが、みんなからの思いのこもった歌と何十本もの魚肉ソーセージを見て、大喜び!!
「みんなありがとうー!!(泣)」 その後も魚肉ソーセージのレイを首から離しませんでした。(お昼に3本くらい食べていた)
今日はサンコー、パシフィックとも波浪対策の単管の撤去だけを認めました。午後から出たパシフィックが6時過ぎまでねばり、撤収は7時近くに。

←撤収してテントに戻ると、東京からきた「NO BASE HENOKO」のメンバーが沖縄に到着していました!!

いらっしゃーい!!
しょうちゃんが悦美さんにかっちゃんTシャツをお渡ししました!!
「しっかりつくってあるのね〜」と悦美さん。「ちゃんとスキャナーで読み取って再現しました!通りがかりの人が背中のこの文章を読んで『そうよね〜!!』と言って声をかけてくれたこともあるんですよ〜!!」と悦美さんが喜んでくれた様子にとっても喜ぶしょうちゃん。
マシュポファイル 3
これまでの阻止行動の経過をお話しします。昨年10月までの作業は、海底に戦争のとき落とされた不発弾が無いかを調べる、磁気探査などをしていました。

しかし阻止行動によってその作業も全く出来ていないのに、防衛施設局は無理やり作業を次の段階に進めてきました。

それが海底の地質を調べる、ボーリング調査と呼ばれるもので、海底に15センチの穴を約9m掘削します。その作業には、自然環境に有害な薬物を大量に使用しますが、施設局は環境に影響しないとして作業を強行してきました。

ボーリング作業には10m以下の海底を掘削する単管ヤグラ、10mから25mがスパット台船、25m以上になるとスーパー固定ブイと呼ばれる機材を設置して、昨年12月までに合計63箇所の掘削を予定していましたが、阻止行動のおかげでまだ1箇所もできていません。

最近、施設局や基地賛成派の団体は作業の困難を理由に、掘削箇所を減らしたり作業手順を変更するなど新案を相次いで発表していますが、もともと辺野古の複雑な地形を埋め立てて、海上ヘリ基地を作ろうという計画自体に無理があるんだと思います。

ボーリング作業の説明に戻りますが、単管ヤグラを設置する水深10m以下というのは、浜辺近くのリーフと呼ばれるエメラルドグリーンに透き通った浅瀬のことを言います。外の深い海が大荒れしても波が高いときも、外洋とリーフの境目 リーフエッジで波が壊され、リーフ内は比較的穏やかになるため、時々辺野古を避難場所として使うんだと近隣で漁をする海人が言っていました。

その穏やかな海はカクレクマノミが泳いでいたり、一時は壊滅的な被害を受けたサンゴ礁が再生を始めているポイントでもあり、ジュゴンの食堂と呼ばれるくらい辺野古は海草が豊富に育つ場所でもあります。

今年1月には北東方向の大浦湾でジュゴンと海がめが戯れていたのか、もしかしたら喧嘩していたのかもしれませんが、一緒に並んで泳ぐ姿が確認され、5月にも海人のかっちゃんが南西方向の宜野座の海でジュゴンを見たそうです。40年以上漁師をやっていてまだ2回目のことだそうで、すごく興奮した様子で報告してくれました。

そのリーフ内に、30箇所のボーリング作業が予定されています。単管ヤグラと呼ばれる工事現場の足場に使われる鉄パイプを組み合わせた4m四方のジャングルジムが現在海上に4箇所建てられています。1116日は本格的にヤグラを立て始めた日で、僕にとっての初めての海上行動となりました。

単管ヤグラを設置しようとする2隻の作業船の間にカヌーが20隻近く割り込んで阻止し、お昼ご飯もその状態で食べなければなりませんでした。

僕はもともと乗り物酔いしやすい体質のため、半日で10回吐きました。辺野古の「1日で吐いた回数」ではレコード記録だと思います。

その翌日は海面までヤグラがくみ上げられたポイントで阻止行動を試みましたが、高い波が打ち寄せる中、腰まで海に使った状態で、8隻の作業船に囲まれて、船のへさきが目の高さにあってこっちは守っているのは4人と言う状況で怖くて身体の震えが止まりませんでした。

作業船の船長には「震えてんなら帰れ!」って怒鳴られ、カヌーに乗ればまた船酔いして、他のポイントはすでにくみ上げられているし、晋くんがめちゃくちゃスピード出して運転する船に必死にしがみつきながら、陸に戻る時、いろんなことが悔しくてちょっと泣けました。

でも事務所に戻ると、おばぁ達があっけらかんとした様子で迎えてくれて、昼食をとっていると「あんた歳いくつね?」って聞かれたので「晋くんより年上です」って答えたら、「へ〜!あんた、中学生に見えるさぁ!!」って驚かれて「そのまま中学生のフリして僕は平和な世の中に暮したい言っていってやりなさい!」っていわれてちょっと救われた気がしました。

その後地元に戻りましたが気持ちが晴れず、作業員の暴力によってつぎつぎとけが人が出る中で、もう一度辺野古に行く決心をしました。

そのCへつづく


HPへ掲載するに当たり、一部加筆・修正をしました。
この文章の転載などを希望される方へ、まずはじゅごんの家のメールアドレスまでお問い合わせください。よろしくお願いします!


郵便局 10020−84023361
赤羽 則子

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