ジュゴンの家・日誌

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6月D
参加者募集!!!
阻止船に乗る人、海上のやぐらおよびテントで座り込みする人が必要です!!!
少ない時間でも、行動できる人は集まってください!!
あなたが行動することで現場の状況は変わる・・・・!!
どうか、よろしくお願いします!!
辺野古に来てください!!!
夜間の座り込みも始まり、普通の衣服では濡れて風に当たっているとかなり寒いです。
海上行動用のダイビングスーツも募集しています。使わない物があれば、是非ジュゴンの家の住所まで送って来てください!!お願いします・・・!!
寝袋の募集は終了いたしました。ご協力ありがとうございました!!
しかし、寝袋にはいる人がいません!まだ24時間の警戒体制は続いています。
ぜひ、やぐらに来てください!! 

海上調査阻止行動のための緊急カンパのお願い!!
現在、辺野古ではボーリング調査を阻止するための阻止行動が行なわれています。とりわけ「海上調査阻止行動」が重要になっています。リーフ外での防衛施設局の調査を阻止するための行動船を調達するための資金が圧倒的に不足しています。

 今すぐに数100万円の資金が必要です。全国の皆さんに緊急カンパをお願いしたいと思います。皆さん応援をよろしくお願いします!!

 カンパを振り込まれる際は、下記の口座にお願いします。(このカンパのお願いは「ジュゴンの家」が、「命を守る会」を応援する気持ちで独自でやっています。振り込まれたお金は、辺野古でのボーリング調査阻止行動のために使われます。)
●郵便局 17040−14225611  西 陽子 

国会前座り込みホームページヘ!!

辺野古より緊急連絡!!!

海面に油広がる 水陸両用車沈没 (琉球新報6/10夕刊)

 【名護】名護市辺野古沖で9日に沈没した米海兵隊の水陸両用車から油が漏れ出して周囲の海面に広がっていることが10日午前、分かった。米軍は市に「油漏れ対策として、9日に化学剤による中和作業をし、10日にも行う」と説明している。
 目撃した人によると、米軍は10日午前8時ごろから現場にゴムボート2隻を出し、数人の潜水士が潜って部品状のものを引き揚げるなどの作業をしていた。通常の中和作業で見られるオイルフェンスを張って薬剤を散布する様子はなかった。辺りには油のにおいが立ち込め、午前9時ごろ、米兵が現場を離れた後にも海面には幅3、4メートル、長さ2、30メートルほどの油の帯が残っていたという。
 米軍がどのような手順で中和作業をするのかは分かっていない。午前の作業の後、米軍は10日午後零時半現在、現場に現れていない。 

那覇防衛施設局はこの油漏れに対して、現在何の対策も行っていません!!
一刻も早い油の回収、オイルフェンスの設置を防衛施設局へ訴える抗議の電話・FAXをよろしくお願いします!!
那覇防衛施設局  電話098−868−0174
             FAX098−863−1750

 ボーリング用のやぐらが珊瑚を破壊・・・!!
3月17日(木)にきた台船を留めるために、荒波の中無理やり降ろしたアンカーが、
再びサンゴを破壊していた。
海底に潜った夏芽さんたちが撮影した写真が見られます!!

ここをクリック!!





「名護街宣大作戦!」のお知らせ

 名護市民は辺野古に注目しています。でも、なかなか現場に来ることができない、きっかけがつかめないという人達のために、辺野古の現場でおこっていること、今、名護市の全体の力が必要だということ伝えに名護市街へ出て行きませんか?


                        

☆飛び入り大歓迎!!

     一緒にビラまきをしたい人を募集しています。

 私たちは毎週土曜日、海上行動隊、海人のマイクアピールや
 ビラまき、写真の展示などを行います。皆さんもぜひご一緒に
 参加してください!!


☆作戦決行日:毎週土曜(雨天中止)
      14:
30 じゅごんの家集合!!(名護市城2−13−2)
      15:00 為又・
「洋服の青山」前で街宣開始!
      16:30 名護十字路近く・「オキマート」前で街宣開始!
      18:00 「じゅごんの家」でミーティング



  マシュポ名古屋・大阪報告会のお知らせ。 

大阪
   日時 :7月2日()  18:0019:30
   資料代:500円
   場所 :梅田東学習ルーム F会議室
  
 ※JR大阪駅、御堂筋口の歩道橋の下で17:00まで大阪行動をしています。
   場所がわからない方がいたら気軽に声をかけてください。


                   主催:「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」
                  連絡先:080-3650-2625(鈴木)

  名古屋    http://www.geocities.jp/henokonagoya76/
    日時 :7月6日()  19:0021:00 (集会終了後、別会場にて交流会を予定)
   資料代:500円以上

     (会場費や資料代を差し引いたお金を辺野古への基地建設を止める為のカンパ
     とし、現地に直接持っていっていただきます。)

   場所 :なごやボランティア・NPOセンター 集会室
     (地下鉄伏見駅徒歩7分、白川公園向かいの消防署のビルの12F、
     中区栄1-23-13 伏見ライフプラザ12階)

                   主催:7月6日報告会を準備する会
                  ホームページ:http://www.geocities.jp/henokonagoya76/index.html
                      メール:henokonagoya76@yahoo.co.jp
                      電 話:***-****-****(準備中)
                      協力:なごや自由学校





6月23日(木)
座り込み431日目〜今日は慰霊の日〜
じゅごんの家は、魂魄の塔で行われる国際反戦沖縄集会に参加しました。
ひめゆりの塔の近くから魂魄の塔へピースウォーク!!
「月桃の花」を歌いながら、さとうきび畑の中を20分近く歩きました。
途中に、各都道府県の慰霊碑が建っていて、そこにはたくさんの方々が献花に来ていました。
魂魄の塔にもたくさんの方々が集まり、花がたくさん供えられていました。 会場で辺野古のチラシを配りました。
今日は座り込み432日目です!
お昼ごはん。
おにぎりをいただきまーす。
中村文子さんのお話。
「陸に戦車、空に軍用機のない沖縄を取り戻すまで精一杯闘うということを魂魄の塔で誓い合いましょう!!」
海勢頭豊さんのミニコンサート。
沖縄戦を体験した方から貴重なお話がありました。「日本軍にガマから追い出され、全身に火傷を負った母親と兄弟4人でさまよい続けた。」肉親のむごい死を目の当たりにした体験を、涙ながらに一生懸命話してくれました。

高校生も涙を流しながら聞いていました。→→
平和会(ピョンファ会)の方々が平和を求める歌を披露。
辺野古に負けないくらい若い人ばっかりだ〜!!
「従軍慰安婦の方に出会って自分が加害者だということを意識しました。」
その時の思いを朗読と踊りで表現してくれました。
最後にみんなで「継いでいくもの」という歌を合唱。
フィリピンで軍事基地を撤退させた反基地運動をしている方から発言。 真喜志好一さんから
「ジュゴン訴訟」報告
宜野湾市長、伊波洋一さんの発言
最後のライブはまよなかしんやさん。「命の海」という辺野古に基地はいらないという歌を歌いました。
サオリもピョンファ会からお借りしたチャンゴで飛び入り参加!!
 今日は集会の前に初めてひめゆり資料館に行きました。勉強をする自由を奪われて戦争に強制的に協力させられたこと。それは国のため、アジアの平和のためだと信じて疑わなかったこと。教育ってゆーのは怖いなぁと思いました。現在、「新しい歴史教科書をつくる会」が歴史をねじまげた教科書を日本全国に普及させようとしてて、この教科書を信じる子どもたち世代の未来だ〜・・とちょっと怖くなった・・。平和を求めて戦争に反対するわたしたちは絶対に「つくる会」教科書なんか認めない!!ということをあらためて実感したサオリでした・・。
小泉は沖縄に来る資格なんかなーい!!とっとと出てけ!!BYまよなかしんや。オワリ。
海上行動の様子 座り込み431日目
晋くん日誌
慰霊の日の辺野古。
6月23日(木)
・慰霊の日。

〜慰霊の日なのでさすがに作業はありませんでした。〜
「明日もやる」防衛施設局側による明らかな揺さぶりでした。慰霊の日にやったら沖縄県民の反感を買う、そのことは分かっていたようです。
防衛施設局はこの間明らかに私達の消耗と混乱を狙って色々な嫌がらせを行っています。消耗と混乱それに伴って強行をし出来れば逮捕者を出す。そして運動の破壊をしようとしています。防衛施設局の狙いは分かっています。私達はそんなことには絶対に負けない、防衛施設局がやればやるほど追い込まれるのはこの国です。
今日は午前中から各ヤグラに座り込みました。
休日で大潮なので海人達がたくさんの人達を連れて潮干狩り、漁に出ていました。
一日、各自泳ぐ練習をしたりと強行に備えていました。
陸上の座り込みには慰霊の日に伴ってたくさんの人達が集まっていました。小録おばぁが琉大生に辺野古の話をしたりしていました。これまでの辺野古や自分がなぜここで座っているのかや慰霊の日の話。
そのことは後日触れます。

〜防衛施設局、水陸両用戦車の調査。〜
6月9日に水陸両用戦車が沈んでから2週間、防衛施設局は一切何もせず、沈没させた張本人である米軍にいたっては「霧吹き」で「中和剤」を油にかけると言うわけのわからない状況でした。
今日になって防衛施設局は漁港から警戒船一隻をチャーターし、技術者と思われる人間を6名乗せて現場に向かいました。
現場に着いた技術者は大潮で陸上になったリーフをGPSとバッテリーを抱えて測量をしているようでした。
たぶん、沈んだ水陸両用戦車を引き揚げるための調査をしているものだと思われます。
QAB琉球朝日放送 2005年 06月23日(木曜日 夕)
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中継 糸満市 魂魄の塔

糸満市米須にある「魂魄の塔」にいます。日が暮れかかった今も多くの沖縄戦の遺族が花をたむけ、祈りをささげています。

この魂魄の塔は、終戦直後の1946年1月、この米須の地に収容された今の那覇市、当時の真和志村民の人たちが、おびただしい数の遺骨がいたる所に横たわっているのを見るに忍びず、収骨し、祭った場所です。

戦後沖縄で、住民が最初に建てた慰霊の塔で、ここが「沖縄の塔」だという人も数多くいます。

3万5千柱にも上った遺骨の大半は、現在は摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に移されていますが、今もこうして魂魄の塔を訪れる人は後を絶ちません。「あの人の魂はここにいる」と愛する肉親に想いを寄せる人たちが、ここを訪れ続けているのです。

きょうは、この魂魄の塔への収骨に携わった方にお話を伺っていますので、後ほどお伝えします。
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戦後60年の「慰霊の日」 平和誓う一日ドキュメント

多くの住民を巻き込んだ沖縄戦から60年。慰霊の日のきょう沖縄は一日平和を願う日となりました。戦争の体験者が減る中、60年は、まさに節目の年。きょうは当時の沖縄の事実をどう語り継ぎ心に刻んでいくかをあらためて考える一日ともなりました。中継は後程、まず、けさからの様子と全沖縄戦没者追悼式をドキュメントにまとめました。


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2005年 06月23日(木曜日 夕)

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中継 魂魄の塔 遺骨収集から沈黙破り語り部へ

再び中継です。戦後50年の記念事業で建てられた平和の礎に対して、沖縄戦終焉の場所で戦後最も早く建てられ今でも遺族の人たちの心の支えとなっているのが魂魄の塔です。その場所にいる謝花記者を呼びます。謝花さん

はい。魂魄の塔には今も祈りをささげる人が後を絶ちません。戦後、初めて住民が、この米須周辺のおびただしい数の遺骨を集め、祭ったのがこの魂魄の塔です。このため、沖縄戦で生死がわからない人や、亡くなった場所がわからない人の遺族が、「唯一の祈りをささげる場所」と想いを寄せる場所です。

この魂魄の塔の収骨作業に携わった高良さんを取材しました。

高良明秀さん「真和志村民が遺骨収集した頃の、その納骨するのは、私はその右手ね、右手の口を覚えています。そこから納骨をしたと。あのカマスに入れたものを持ってきてね、そこから全部(入れた)」

1945年3月下旬、当時9歳だった高良明秀さんは、家族で那覇から恩納村の山に逃げ込みましたが、4月にはアメリカ軍が上陸、砲弾が激しく迫ってきました。逃げ惑う日が続く中で、ある日父親の行方がわからなくなります。

News Photo

父親が見つからないまま、5月には周辺の人とともに投降し、石川収容所に入ります。翌6月に戦争が終わり、高良少年の一家は、父親の出身地である真和志村の村民が米須に移されるとの知らせを聞きます。家族は、父親の消息を求めて米須に移りました。

米須で待っていたのは、おびただしい数の半ば白骨化した遺体。そこに、アメリカ軍から村長に任命された金城和信さんが遺骨の収集を強く望み、1946年1月、住民による遺骨収集が始まりました。当時9歳の高良少年も袋を手に、友人と一緒に収集に参加します。

「普通にあるサトウキビの倍ぐらいになっていた、いわゆるその部分だけが青々として茂っているわけ」

キビ畑の中に一ヵ所だけ青々としているサトウキビを見つけた高良少年たち。

「サトウキビを折ってグループで食べて、あと、そこは結局よく見ていると人が死んでいるという感じで」

高良少年は、父親を探す一心で、怖さも感じなかったといいます。

News Photo

「自分の父親って言うのはどこかで生きてるんじゃないかなというようなことで、あるいは死んだにしてもどこかで会えるんじゃないかなということで」「行く先々そういうことばっかり考えてましたから、だから怖さは全然無かったですね」

砂浜には、なきがらが、波で打ち上げられた白いサンゴのように連なっていたと話す高良さん。そして、海岸沿いに生い茂っていたアダンの林、そこで目にした痛ましい姿が、脳裏に鮮明に浮かびます。

「これはもうほんとに親がね、あの母親がこどもをかばうような形、」「ようするに、手から離れているんじゃなくて、なんかこう抱いているような感じの死に方ですよね」

高良さんは、住民がここまで追い詰められ、悲惨な最期を遂げてしまう戦争を、二度と起こしてはいけないと、静かに強く語りかけます。そして高良さんにとって魂魄の塔は、父親の魂を慰めるとともに、永遠の平和を祈る場所です。

「この魂魄の塔から、やっぱり平和というものを発進して行きたいなという気持ちもあります。そして皆さんが安らかに眠って欲しい、そしてその、永久に平和をね、見守って欲しいというようなところでもあるわけですよ」「私にとっては聖地、そして気持ちを癒してくれるようなね、聖地です」

News Photo

高良さんは、父親の遺骨はこの魂魄の塔に無いかもしれない、しかし魂はここにあって、高良さんや沖縄を見守ってくれているだろうと話していました。

実は高良さんは、妹も沖縄戦で亡くしていて、つらい想いをずっと抱き続けてきたのですが、戦後60年が経ち、自衛隊の強化や憲法改正への動きといった日本の状況に危機感を募らせ、自分たちが次の世代に伝えなければまた繰り返されてしまうと責任を感じ、思い立ったということで、今回語ってくださいました。

沖縄戦で亡くなった全ての犠牲者のためにも、あらためて、永遠の平和を祈る気持ちでいっぱいです。

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6月22日(火)
座り込み430日目
今朝もいつも通り集合。今日も頑張りましょう!! 停泊中のフィリアにピースメーカーが横付け。運転していた姉御達が乗り込んでくる。 姉御達はタバコ休憩中。確かにゴムボートでは吸えないっすもんね・・。
 ←朝8時ごろ、米兵が水陸両用戦車の沈没ポイントで、油中和剤を撒いていった。さっさと引き揚げてください!

 9時過ぎ、作業船が出てきたが、今日はなぜかパシフィックだけです。→
サンコーは出て来ていないので、阻止船も一つのポイントに集中、四面を封鎖!第1、3ポイントを行き来するが何もせず。 午後1時になって、サンコーが出てきた。 今回の大潮はマイナス干潮のため、いつも以上に水位が下がります。いつもは4mくらいの第1ポイントも今日は2mくらいしかありません。
その後、両社合同の排除勧告をした後、パシフィックは4時ごろ撤収。様子を見ながらこっちも第3・5ポイントが撤収すると、サンコーは3と5にめがけて急行していった!こちらも追う!! 

←第5ポイントまで来て作業員はヤグラに登ったが、本格的な作業はせず船に下りた。こちらへのけん制だったようです。
 このまま1時間 第5から動かず、サンコーの撤収は結局6時過ぎでした。
じゅごんの家日誌
←今夜はマシュポのマーボー豆腐。


 今夜も無事 食事できることに感謝します。いたーだきます!→
晋くん日誌
23日、慰霊の日に作業!!〜サンコーが強行。
6月22日(水)
・防衛施設局による違法な強行調査を阻止しています。

〜慰霊の日も作業!!??〜
慰霊の日が近づいています。
昨日、今日と波は高いもののサンコー、パシィフィック共に海上に出てきています。
今日、阻止行動の途中に「明日もある」というようなことが防衛施設局側から聞かれました。
「明日は」「慰霊の日」です。鎮魂と追悼、そして沖縄の平和への闘いの全て(大前提)である「慰霊の日」に作業をするなんてことは絶対にあってはならないことです。
戦争を賛美している小泉首相が慰霊の日の式典(県主催)に2年前と同様に出席することでさえ絶対に許せないことなのに、一体この国は何を考えているんでしょうか。許せません。
もしかすると小泉首相の式典参加を阻止される可能性があるため、辺野古とに分散させるつもりなのかもしれません。
明日、作業があったとしても私たちは油断はしません。明日も絶対に阻止します。

〜今日の海上〜午前
今日の午前中はパシィフィックコンサルタンツだけが動いていました。
午前8時、5隻の小型作業船と1隻の大型作業船が出港。大型作業船が出たということで緊迫感は増しました。
大型作業船は「海象調査」をしているとのことでしたが、その「海象調査」もヤグラ建設の前段階の作業で認められるものではありません。
大型作業船にはナイワイ号が張り付き、監視行動。リーフ内でのパシィフィックの動きには4隻の阻止船が警戒にあたりました。
・第3ヤグラ
パシィフィックはまず第3ヤグラに向かい、「ダイバーが一人潜った」との無線の連絡が入り、私も急いで第3に張り付きました。
こちらの飛び込み隊が何人か海に入ったものの、パシィフィックは強行突入はしてきませんでした。
第3ヤグラでのパシィフィックの要求は「クランプの取替え」でした。しかしながら、「水陸両用戦車の引き上げの日程さえも未定の中でなぜ作業に入れるのか。私たちは一切の作業を認めない。」とし、一切の作業を阻止しました。
・第一ヤグラ
第3ヤグラで午前10時頃までいたパシィフィックは第一に向かいました。
第一でのパシィフィックの要求は「海底の状況を写真撮影したい」とのことでした。こちらもさきほどと同じスタンスで全ての作業を阻止しました。

〜抗議の意味も込めて。〜
水陸両用戦車の宜野座での事故、辺野古での引き上げの件に対して何の対処もしていない防衛施設局に対して私達は抗議の意味も込めて行動をしています。そしてこの件に対して防衛施設局との現場での交渉を強く要求しています。
防衛施設局はずっと逃げ回っており、今日になってようやくこちらとのやりとり(??)がありました。
しかしながら施設局はこちらの話には一切耳を傾けず「ボーリング調査をさせろ」と言ってきます。こちらが水陸両用戦車について触れてもまったく答えない。
さらに「ボーリング調査は普天間返還のための基地建設のための事前調査なのだからやらせろ」と言ってきます。一体何様のつもりで物を言っているのか。
こちらが「では答えて欲しい。名護市民投票の結果、反対票が上回った。この国は民主主義と言いながら、民主主義を踏みにじった。そのことについてどう受け止めているのか。」といえば、何も答えられない。
今度は「県知事も名護市長も基地建設を容認している」と切り替えしてきた。「県民は誰も容認していない。」と言うと、「酋長を選んだのはその人達じゃないか。」と言って来る。「知事選挙、市長選挙の時に何が行われていたのか知っていてそういうことを言うのか。稲嶺も岸本も一言も基地のことを出さず、振興策のことだけを言ってきた。それは人々の生活を人質に”基地に反対するものは仕事をさせない”と言っているのと同じだ。」と言うと、また黙ってしまう。
施設局は答えられなくなると必ず「国策だ」の「酋長が決めたこと」だのと言ってきます。論理にもなっていない。阻止行動は権利です。この国が間違っていることをしている、戦争に向かっている。それを止めるのは人々の正当な権利です。
今日、米軍のゴムボートも海上に出て、水陸両用戦車が沈んでいる場所に行き、霧吹きみたいなもので油漏れしているところに吹きかけていた。そんなんで油漏れが止まったためしがあるのだろうか・・・。あるわけない。本当にでたらめだ。

〜今日の海上〜午後
午後になるとパシィフィックだけでなく、サンコーも出てきました。サンコーが出てきたのは午後2時30分、ずいぶんと遅い。
パシィフィックの船団とくっついて合計7隻で各ヤグラを周り「排除勧告」を始めました。各作業船にはダイバーも多数乗り込んでいました。こちらは絶対に阻止する姿勢で排除勧告がされる場所、場所で4人ほどが毎回飛び込んで阻止していました。
「このヤグラはボーリング作業のためのヤグラです。関係者以外立ち入り禁止です。いますぐにどきなさい。」と施設局職員。私達は無言で答えます。作業船が近づけば作業船の前に飛び込み隊が立ちはだかり、一切ヤグラには近寄らしません。

・サンコーの強行〜防衛施設局の指示のもとでの嫌がらせ。
午後4時頃、全てのヤグラでの排除勧告が終わり、パシィフィックは撤収しました。しかし、サンコーだけが残り、第二の周りをうろついている。
ナイワイとゴンベーが立ちはだかり、作業船は近寄れません。私と夏芽さんが海に飛び込んだのを確認するなり、サンコー船団は猛スピードで第3ヤグラに向かいました。
第3ヤグラに着くと作業船が係留しようとしている。飛び込み隊がヤグラに張り付き、阻止。
サンコー船団は一旦離れてアンカーを打つ。飛び込み隊を阻止船に呼び戻すと作業船がアンカーを上げまたヤグラに係留し、作業員を乗せようとする。私ともう一人で止めに入るとすぐさま係留を止め、スピードを上げて第五に向かいました。第五は直前に座り込み隊が引き揚げたばかりで無人になっていました。
ピースメーカーが追いかける。私も船に上がって第五に向かう。フィリィア号もすぐに第五に到着、続いてナイワイ号。第五の上に作業員が二名のぼっている。
こちらの飛び込み隊が6人で阻止行動に入り、結局何の作業もさせませんでした。
サンコーは午後6時頃までねばり、こちらもそれを阻止し続け、全ての強行作業を阻止しました。
午後6時に撤収しました。



6月20日(月)
座り込み428日目
久しぶりに、早朝から各ヤグラへ配置に着きました。
しかしまだ天気はグズグズ、海もこれから時化そうな様子です。
 どこよりも速い!・(見)やすい!・上手い!辺野古情報はこちらで!!
  ちゅら海をまもれ!沖縄・辺野古で座り込み中!
  沖縄辺野古想いをつなげる




6月19日(日)
えびのからが辺野古の感想を書いてくれました。
みなさんこんにちは(^▽^)えびのからです。

6月6日から2週間の予定で辺野古入りしましたが、早いものでもう帰らないといけなくなってしまいました。(涙)
慣れない私を初めから家族のように温かく迎えて下さったテント村の方々、本当に深く感謝いたします。

阻止行動の合間を見付けては観光に連れ出してくれたり、数々のおいしいお料理をご馳走して下さったり、泳げない私に息継ぎの方法を教えてくれたり、三線を弾かせてくれたり、ジュゴンの日ライブに出演させてくれたり、私のつたないギターに三線とハモリをつけてくれたり、闘うということへの本気さを言葉と行動で教えてくれたり、自分の命だけでなく、仲間の命や作業員の命も大切に思う心を教えてくれたり、会ったその日からまるで兄弟のように付き合ってくれたり・・・。

ここでの2週間はえびのからの人生においてとても有意義なものになりました。どうもありがとうございました。

あいにく、雨には強い沖縄県民の方々までが驚く悪天候が続き、この2週間でヤグラに登れたのはたったの3回で、作業員との直接的な攻防はなくそういう意味ではあまりお役にたてなかったんじゃないかと思いますが、私はここにきて学んだ事や感じた思いを千葉に持ち帰ってそこでまず地元からひとりの行動から始めていこうと思いました。

私が反戦活動に関わったきっかけは『HIBAKUSHA〜世界の終わりに〜』という映画でした。アメリカのハンフォードにある核施設の風下でたくさんの放射能を浴びたジャガイモやとうもろこしが育てられている。その生産量の7割が日本に輸入されてマクドナルドなどのフライドポテトになっており、私たちはその事実を知らされないままそれをおいしいと言って食べている・・・。

その事実を知ったとき、私は“日本にいながらにして戦争の被害を受けている”と思いました。そして、戦争はただなくなればいいと願うだけでは止められなくて、本当に止めたいならばその気持ちを具体的な行動に移していかなければならないと思いました。そしてその日から自発的にデモや集会に行ったり、労働学校で学んだり、自分にできる事をやっていこうと思ってやってきました。

今回の辺野古も、5月16日に第3ヤグラで作業員との攻防を目の当たりにし、まるで怪獣のような作業員の目つきや暴力に対して感じた怒りや悔しさなどがバネとなり、国家のために命が奪われてたまるか!という思いの中で決意しました。

その映画も、辺野古で感じた思いも、私の人生にとってはまさに『ターニングポイント(転換期)』となったので、私は歌を通してそれらの現状を伝えていこうと思い『ターニングポイント〜HIBAKUSHA世界の終わりにバージョン』と『ターニングポイント〜辺野古バージョン』を作りました。(辺野古バージョンは『辺野古の海から〜若者バージョン』のCDに収録されているので興味がある方はぜひご試聴下さい。)5月26日に四谷コタンというライブハウス(東京)でえびのからのライブがあるので、その日は持ち時間の全てを辺野古での闘いに絞ってMCをしながら歌わせて頂きたいと思っています。(ご都合のよろしい方は足を運んで頂けると嬉しいです♪)

辺野古では、みんなが(いろいろな組織や思想を超えて)新基地建設は絶対に許さない!戦やならん!と気持ちをひとつにしてお互いを思いやる気持ち(それは作業員に対しても例外でなく)を忘れずに自分にできる事の限界を日々克服しながら闘っておられました。気持ちの中では辛いことも沢山抱えての毎日だと思いますが、どんなときもテント村にはおじぃやおばぁを初めとしたみんなの笑顔があって、私はその笑顔にどれほどの元気や勇気をもらったかわかりません。『笑顔があれば必ず勝てるよ!』というおじぃの言葉が心に残っています。罪と人をついつい混同しがちな私でしたが、罪を憎んで人を憎まず、というここで学んだ姿勢をこれからの闘いの中でも胸に留めながら頑張っていきたいと思います。

また、帰ってきます♪それまでは、できる事をできる場所でできる人たちと一緒にやっていこうと思います。辺野古が白紙撤回を勝ち取れた暁には一緒にお祝いしたいです☆いつまでもおげんきでいらして下さい。どうもありがとうございました(^∀^)ゞ

                                    2005年6月19日  えびのから        

じゅごんの家の休日
名物の肉そばを食べに、大宜味村へ行きました!
器からあふれでるもやしの量にみんなびっくり。
初テビチを食べるえびちゃん。
食後はみんなで古宇利島へドライブに行きました。最近開通したばかりの大橋。 ごきげんドライブ。 古宇利島の漁港には、年代物のサバニ船がたくさんありました!今でもこの船で漁に出かけているそうです。
その夜、マシュポ・えび・南のねえねは、カヨーのおじぃの家で夕食をご馳走になりました。
カヨーご夫妻、心のこもった料理 ごちそうさまでした!



6月18日(土)
座り込み426日目
今日も悪天候にみまわれ、海は大荒れ。 とりあえずテント待機です。 しかしたくさんの座り込み参加者で、座るスペースがありません・・。
 引き潮の海で、久しぶりにコメツキガ二の群れに会いました。ジュゴンだけじゃなく、辺野古には守るべき貴重な生き物がたくさんいます。
今度の大阪・名古屋報告会について、打ち合わせをしているマシュポとその友人。 カヨーのおじぃは訪問団に得意のカヨー節で語って聞かせます。 パソコンに向かうO西氏の 真剣な背中。
 県外からテレビ局が取材に来ました。水陸両用戦車の沈没地点に行ってみましたが、波が高く戦車は確認できず。しかし、未だ引き揚げの目処は立っていません。
このところの長雨で体が鈍っているので体を動かす。ヒンズースクワット!いきなりのハードな運動で皆バテる。 姉御はカエル立ちやら 三点倒立やら。船を運転するにも、バランス感覚が大切!
じゅごんの家日誌
琉球新報にCDを売り込みに行きました。 写真撮影はお店の前で全員集合。うまくいけば紙面に載せてもらえるかも! 辺野古の海 若者バージョンはじゅごんの家で発売しております!


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